本棚

ミステリーを主にさまざま文学作品をご紹介していきます

松岡亮二「教育格差」再レビュー

義務教育での学力格差の固定

この環境差は、幼稚園、そして小学校に入ってもそのまま維持されます。高SESの家庭は蔵書量が多く、子どもの年間読書量も多い。経済力の影響を排除しても、高学歴の父母ほど読書しており、父母が読書量を増やすと子どもの読書量も増える。ここでは、読書習慣の世代間伝達が起きているのだと言えます(p117)。

また、国際学力調査TIMSS2015によれば、子どもの小学校入学時点での読み書き能力に関する親の評価(とてもよくできた・まあまあできた・あまりできなかった)が、小学校4年生の時点の算数と理科の成績と強く関連しており、この小4時の学力差は、小学校卒業時点まで埋まりません。

さらに、埼玉県独自の学力調査では、小6から中3までの家庭の蔵書数と学力の経年変化について調査されていますが、ここでも、家庭の蔵書数が多い方が学力が高く、この学力格差は小6から中3まで埋まらずに続きます。

つまり、様々な調査は、地域・家庭要因で生じる小学校入学時の格差が、義務教育終了時まで温存されることを示唆しているのです。

「生まれの差」を「努力の差」に読み替える高校

そして、高校。日本は世界的にも特異な(というのは僕もこの本で知ったのですが)、高校段階で学力格差を拡大・固定化する仕組みを持った社会です。つまり、高校入学時点の学力で、高SESに支えられた高学力の子は高学力の学校へ、SESが低い低学力の子は低学力の学校へ進み、それ以降、その世界がその子にとっての「普通」になる。義務教育までは「平等」(ゆえに格差を縮めもしない)を装っていたのに、高校からはその格差が露わになる。しかも、入学試験という儀式を経ることで、「生まれの差」によって生じた格差が「努力の差、能力の差」に読み替えられる。低いSESや学力の子は、同じ境遇の子ばかり集まる学校で、学校への期待値も本人の将来期待値も低いまま。一方で、高いSESや学力が集まる学校の生徒は、同じ仲間に刺激されてより勉強をし、学校にも誇りをもつ。本書からは、そんな分断された姿が浮かび上がります。

総じて、学校(小学校・中学校・高校)は格差の縮小・平等化機能は持っておらず、家庭(経済力、家庭週間)や地域(どんな人が地域にいるか、どんな風に過ごすのが「普通」か)によって、子どもの将来は緩やかに決まってしまう。それが、ずっと前から続き、今さらに強まりつつあるのが、現代の日本社会です。

自分の子供時代を振り返っても…

こうした主張は自分の過去を振り返っても、頷けることばかりでした。経済的に恵まれた東京の家庭に生まれた僕は、幼少期からたくさんの本を親に買ってもらい(代わりにテレビアニメやゲームは禁止)、放課後は各種の習いごと。やがてその習い事が中学受験塾に代わって、中学から国立の中高一貫校へ。そこでは僕と同等かそれ以上に裕福な家庭の子どもが多く、今、親になった同期生のほとんどは、子どもを小学校か中学で受験させるのが当たり前の価値観を持っています。

たまたま裕福な家庭に生まれた人間が、幼少期から様々な恩恵を受け、次第に異なる生活環境の同世代のクラスメートを遠ざけ、同じ階層出身の人たちをコミュニティの仲間として選ぶ。要約すれば、僕の子供時代はそういう過程だったことを認めざるを得ません。

自分の「正しさ」に酔わないために

膨大なデータに基づいて「緩やかな身分社会」であることを論じた後、第7章以降で筆者はこのような社会に対する自身の提案をします。ここは本書の白眉なので、ぜひご一読を。平等にしているだけでは格差は埋まらない。では、どうすれば?という議論が展開されます。

個人的には、この問題に関連して、どんなに善意に基づいたとしても、研究結果やデータを無視した場合、その教育制度や実践が「意図ならざる結果」をしばしばもたらすという指摘が印象的でした。

とりわけ、「自由」「子どもの選択」「個別化」を掲げる風越学園のスタッフとして気になったのは、次の主張。少し長くなりますが、そのまま引用します(pp261-262)。

教育制度によって構造化された時間を縮小し、児童・生徒の選択の「自由」を尊重するのが 「小さな学校」だ。部活動・補習・宿題の廃止論などは典型例で、学校にいる時間を減らし、 家庭の中に学校(の課題)が入り込んでくることを「自由」の侵害としている。動画授業や人工知能を利用した学習の個別化も同じく「自由」と個人の「優秀さ」を最大限に尊重する「効率」的な教育といえる。授業時間やカリキュラム量を削減した「ゆとり」教育も学校の介入か ら「自由」にすることを志向したという意味で同じ系統だ。

「自由」による自己選択は理念としては素晴らしい。ただ、もし単純に公教育の役割を縮小するのであれば、「生まれ」は現在よりも直接的に子に引き継がれることになり、厳密な身分社会に近づくことを意味する。事実、2002年に土曜日が休日になったことにより、SESに よる中学3年生の学習時間と高校1年生の読解力の格差が拡大したと解釈できる研究結果がある(Kawaguchi 2016)。「小さな学校」による個人の「自由」の拡大によって「差異化」が進み、結果の「公平性」が脅かされるのだ。同様に、学習を徹底的に個別化すれば、初期の「能力」と親の子育てパターンにSES格差があるので(第2章)、学校の「平等化」機能は弱まり、格差は拡大すると考えられる。「能力」に合わせた「効率」重視の飛び級・留年も同じだろう。

もちろん、価値の相克と向き合った上で、「結果としてより厳密な身分社会になったとしても、個人の自由(な選択)が尊重されるべきだ」という主張であれば、それは一つの意見だ。 後半の耳あたりのよいところだけを主張する偽善(あるいは単なる無知)より、よっぽど建設的な議論に繋がる。

「自由」「自己選択」「個別化」を標榜する教育実践が、「平等化」と基本的に相容れない方向性であることは、自覚しないといけません。自由にすればするほど、家庭教育の影響力が高まって、高SESの家庭の子に有利になる。

また、同じことが「地域に開かれた学校」にも言えるとのこと。地域に開けば開くほど、地域の教育力の差が表れるので、仮に全国の全ての学校が地域に開けば、それは地域ごとの教育格差を拡大させるでしょう。

結果として、筆者の表現を借りれば、一見自由で地域に開かれた学校が、意図しない結果として「より厳密な身分社会をもたらす」可能性は常にあります(もちろん、教育政策と一つの学校の影響力を同一視してはいけないでしょうが)。ではどうするのか。ここが難しい。筆者は次のようにも述べていました。

大切なのは、あらゆる実践・政策・制度の「よい側面」だけを見て「正しさ」に酔うのではなく、相反する価値・目標・機能の中で葛藤し、総体としての「みんな」の可能性の喪失を最小化することなのだ。(p287)

相反する価値の中で葛藤し、それでも一つの価値を選びとって、自分の限界を知りながら、総体としてのベストを追求すること。決して、自分の「正しさ」「耳当たりの良い教育理念」に酔わないこと。自分たちの実践を、研究を参照項にしながら、より俯瞰してみること。

誰もが薄々は感じ取っている、しかし自分の経験を一般化しがちな教育格差の実態を、きちんとしたデータで立証し、今後の処方箋を示す。実践と研究を往還させることの大切さが感じられる本でした。ぜひ読んでみてください。