島添龍馬(文学作品のすすめ)

ミステリーを主にさまざま文学作品をご紹介していきます

赤木和重・岡村由紀子「「気になる子」と言わない保育」 再レビュー

とてもユニークな構成。「気になる子」の側から世界を見ると…

この本、とりわけ、色々な「気になる子」のケースが合計22個も扱われる第1部の構成が良かった。例えば「話を聞かなければいけない場面でいつもおしゃべりしてしまう」子のケース。どう対応すると良いと思いますか? 

この本では、まず「お約束表ルールを作る」「毎日決まった時間に一対一で話を聞く」「「話す人マイク」を使う」という、一見良さげで実際にもよくある対応の仕方が提示され、それに「本当に?」と問いが返されていく。そして、「話を聞かなければならない場面でのおしゃべり」を、子どもの側から見てみるとどういう場面なのかが考察される。さらに、その考察を生かして、単に大人側の都合を押しつけるのではない、別の解決法をさぐっていくのだ。

この「でもね、子どもの側から見てみると…」という部分、本当にドキッときた。絶賛子育て中の僕も、よくイライラして子どもを叱ってしまう。「人の話は聞かず、こちらの話の途中に割り込んでくる」「何度言っても片づけができない」「何度注意しても同じ失敗を繰り返す」…そうなるとついつい否定的な言葉が増えてしまうのだけど、僕の言葉には、結局は自分の側の都合だけで、子どもの側の論理を考えている場面が少ないなあと反省した。なぜ彼がそうするのか。彼がそうしてしまう気持ちは何なのか。そこをまず考えないといけないなあ…。

豊富な実践例を理論づける第2部以降も勉強になる

第2部では、第1部での提案の背後にある理論が説明される。ここでも鍵は「子どもの側から世界を見ること」。「気になる子」の「気になる部分」がどこから生じているのかを、子どもの視点に立って考えない限り、小手先の技術や語りかけの言葉では、結果は良くならない。まずは「子どもの側に立つ」ことが大事! その上で、次の5つのポイントが挙げられている。特に、「子どもは自分で変わるのであり、変えることはできない」というのは、日頃思っていてもつい忘れがちなこと。

発達の各時期に応じた子どもの考え方・感じ方がある(知識は大事!)

発達とは自己運動である(子どもは自分で変わるのであり、変えることはできない)

子どもが変わるきっかけは、子どもたちのなかにある

問題行動の裏にある子どもの思いをつかむ

「気になる子」の気にならないところを見る

そして、こんなことも書いてあった。「保育」をそのまま「学校教育」に、「あそび」を「学習」に変えても通用するのではないかと思わされる言葉だ。

「気になる子」を含む子どもたちの、面白くてたまらないあそびを作る保育の視点は、次の3つにまとめられます。

1つは、子ども主体のあそびです。子ども主体のあそびを引き出す手がかりは、そのあそびに子どもが「興味・関心」を持っているかどうかにあります。興味・関心のあるあそびこそ、子供は自主的・自発的になります、あそびの主人公になります。

2つめは、子どもの発達課題を明らかにし、個を深く捉えることです。子どもの不得意なこと・苦手なこと・思い・考えなどを理解することは、あそびを面白くする指導の手がかりやヒントとなるからです。

3つ目は、子どもの思いや考えに共感できる大人や子どもの関係づくり(人間関係)に注目することです。あそびの面白さは、保育者・クラス・仲間・友だちなどの人間関係によって変わってきます。言いたいことを言って、違ったら話し合って、安心でき、ほっとする人間関係のなかでこそ、遊びは豊かになっていきます。(p129)

これらの原則に引き続き、保育の場面でのもっと具体的な言葉がけの例も、引き続き紹介されている。大人の評価語を使わずに、相手が気持ちや成長を実感できる言葉を使うとか、「◯◯しないと遊べないよ」ではなく「◯◯したら遊ぼうね」とか。もっと詳しくは本書を読んでください。

ライティング/リーディング・ワークショップとも重なるなあ…

この本、今の僕にはとても響いた本だった。親として自分の行動を反省させられた、というだけではない。翻訳した『イン・ザ・ミドル』でアトウェルが強調していたのも、これと全く同じことだったからだ。

この本の最初の章の扉。そこには、「私たちが教える論理が、子どもたちが学ぶ論理と同じとは限らない」というグレンダ・ビセックスの言葉がある。アトウェルは、ジェフという「気になる子」に出会い、それ以降、子どもの論理で自分の授業を見直すことをした人だった。この本の保育者とやっていることは同じ!

「私たちが教える論理が、子供たちが学ぶ論理と同じとは限らない」:アトウェルの人生を変えた失敗とは。

2017.07.22

また、「言葉がけ」に注目したピーター・ジョンストンの「言葉を選ぶ、授業が変わる!」も、この本に深い関係がある。表面的な言葉がけだけでなく、その背後にある教師(保育者)の考え方が大事という点でも同じだし、でもこの本の言葉遣いを真似ることで自分の考え方も少しずつ変えられるのでは、と思う点でも同じ。

[読書] 語りかけを通じて、授業と、自分を変える。ピーター・ジョンストン『言葉を選ぶ、授業が変わる!』

2018.07.30

インクルーシブ教育について学ぼうと思って読んだ本は、ライティング/リーディング・ワークショップについての本と同じことが書いてある本だった。この本の姿勢、本当に大事だと思います。でも、全然できていない。言葉遣いを真似することで、自分の物の見方を変えていこう。こういう風に読書体験がつながっていくのも、面白い!

今井むつみ、他『算数文章題が解けない子どもたち』再レビュー

独自に開発したテストの分析が中心

本書は、筆者たちが開発した「ことばのたつじん」「かんがえるたつじん」という2つのテストの設計・実施・分析の報告である。そのせいか文体も一般書というよりはやや報告書チックなのだが、内容は面白い。2つのテストの結果を踏まえて、「できない子」がどこにつまづくのかを丁寧に類型化しているのだ。それに冒頭の、そもそも「全国学力調査」をはじめとして算数や国語のテスト、知能テストも山ほどあるなかで、なぜわざわざ新しいテストを開発したのかというくだりからして面白かった。筆者たちの「生きて働く学力を測るテストを作るのだ」という信念がうかがえる。

個人的な注目ポイントはこちら

この調査では、そんな問題開発の意図から始まって、実施の結果、そして誤答の基本的パターンの分析まで事細かに書いてあるのだが、それをここに詳しく書くとネタバレにすぎるので、ここでは個人的な注目ポイントを少しだけ書いておこう。

子どもは、文章中の数字を、自分の計算のしやすさのために勝手に変えてしまうことがよくある。

「1」に、序数詞の「1」(1個、1cm…などの「1」)に加えて、「全体」や「単位」を表す比較の基準としての「1」(割合や分数で全体を「1」とするときの「1」)があること自体が、多くの子にとってすでに難しい。序数詞の「1」が強烈なスキーマとなって、後者の「1」を学習できない。

算数や国語の学力の説明に結びつくのは、「空間や時間を説明する言葉の運用能力」である。

高学力層の子は、自分にとって重い認知的処理に、何らかの方略で工夫して推論を働かせることができる。低学力層の子は、負荷に負けて推論ができなくなってしまう。

上の①や②の話は、これまでも聞いていたことのある話だが、実際の事例をたくさん見せてもらえて納得。言われてみると、「1」に複数の意味があるの、めっちゃややこしいよね….。また、今回の読書で一番面白いなと思ったのは③の部分。「空間」や「時間」を相対的に説明する言葉の運用能力(「帽子が椅子の左にある」や「7月14日の2週間後」などの表現)が、算数や国語の学力を説明するっていうのが意外すぎた。でも、どうしてそうなのかは、最後(p180あたり)の説明を聞くと納得します。興味を持った方はぜひ読んでみてください。

なお、空間や時間を表す言葉に関する小ネタとしては、空間では自分の視線の方向を「前」を意味する前が、時間軸だと「後ろ」を意味してしまうという話も面白かった。「自分の2人ぶん前の人」の「前」は、自分の視線の方向を指すのに、「2週間前」の「前」は自分にとっては後ろ側の「過去」を表すの、確かに「前」や「後」という言葉を習ったばかりの子からしたら、混乱の元でしかないね…。

「読めない」を丁寧に紐解く一冊

というわけで、本書は、こういう学力と言葉に関する小ネタを挟みつつ、全体としては「文章題が読めない」の「読めない」の内実を、テストの分析を通じて丁寧に紐解いている。まあ、分析手法の妥当性については僕はコメントできる立場ではないので、そこは専門家の方に評価をお願いしたいが、論述の進め方はとても手堅い印象だ。

その「読めない」の内実は、知識が断片的でシステムになっていなかったり、誤ったスキーマを用いてたり、認知処理の負荷に対して対処できなかったり….。全部で7個に分類されたこの原因は、算数ができない子が「どこでつまづいているのか」を僕らが見とる参考になるはずだ(もちろん、現実にはこの原因は絡み合っているので、そう単純な話ではない)。

ただ、正直な気持ちとしては、全体として子どもたちのつまづきポイントがわかればわかるほど、「学習指導要領の範囲の算数ってそもそも小学生がやるのには難しすぎるんじゃないの?」という気にもなってしまう。この本では「1」を理解する難しさが取り上げられていたが、僕の知る範囲では「等号イコール」の意味が説明できない子も少なくないし、「わかってないけど作業だけできている」ことが実はとても多そう。もちろん優秀な子にはそんなことないんだろうし、その他の子にしても「作業だけできる」段階が「わかる」段階の前にあるのだと割り切れば良いのかもしれない。でも、そもそも算数で求められている概念的理解が「背伸びさせすぎている」んじゃないかなあ。その結果、実際には多数の小学生が小学校の算数の段階で取り残されてるんかも…。

具体的にどう指導すればいい?

では、「そういう取り残された子たちに、具体的にどのような指導法が良いのか」ということは、残念ながら本書の守備範囲外である。前書きによると、これについては別に本が用意されるらしい。本音を言うと、この本でそこまで書いてくれると嬉しかったな…と思わなくもないけど(笑)、一章で収まるボリュームではないそうなので、新刊を楽しみに待つことにしよう。

なお、本書のテーマ「算数とことば」については、広瀬友紀『ことばと算数 その間違いにはワケがある』も最近出たばかり。こちらはきっと『ちいさい言語学者の冒険』的なノリで、お子さんの誤答サンプルが分析の中心かなと思うが、こちらも読んでみたいところだ。

松岡亮二「教育格差」再レビュー

義務教育での学力格差の固定

この環境差は、幼稚園、そして小学校に入ってもそのまま維持されます。高SESの家庭は蔵書量が多く、子どもの年間読書量も多い。経済力の影響を排除しても、高学歴の父母ほど読書しており、父母が読書量を増やすと子どもの読書量も増える。ここでは、読書習慣の世代間伝達が起きているのだと言えます(p117)。

また、国際学力調査TIMSS2015によれば、子どもの小学校入学時点での読み書き能力に関する親の評価(とてもよくできた・まあまあできた・あまりできなかった)が、小学校4年生の時点の算数と理科の成績と強く関連しており、この小4時の学力差は、小学校卒業時点まで埋まりません。

さらに、埼玉県独自の学力調査では、小6から中3までの家庭の蔵書数と学力の経年変化について調査されていますが、ここでも、家庭の蔵書数が多い方が学力が高く、この学力格差は小6から中3まで埋まらずに続きます。

つまり、様々な調査は、地域・家庭要因で生じる小学校入学時の格差が、義務教育終了時まで温存されることを示唆しているのです。

「生まれの差」を「努力の差」に読み替える高校

そして、高校。日本は世界的にも特異な(というのは僕もこの本で知ったのですが)、高校段階で学力格差を拡大・固定化する仕組みを持った社会です。つまり、高校入学時点の学力で、高SESに支えられた高学力の子は高学力の学校へ、SESが低い低学力の子は低学力の学校へ進み、それ以降、その世界がその子にとっての「普通」になる。義務教育までは「平等」(ゆえに格差を縮めもしない)を装っていたのに、高校からはその格差が露わになる。しかも、入学試験という儀式を経ることで、「生まれの差」によって生じた格差が「努力の差、能力の差」に読み替えられる。低いSESや学力の子は、同じ境遇の子ばかり集まる学校で、学校への期待値も本人の将来期待値も低いまま。一方で、高いSESや学力が集まる学校の生徒は、同じ仲間に刺激されてより勉強をし、学校にも誇りをもつ。本書からは、そんな分断された姿が浮かび上がります。

総じて、学校(小学校・中学校・高校)は格差の縮小・平等化機能は持っておらず、家庭(経済力、家庭週間)や地域(どんな人が地域にいるか、どんな風に過ごすのが「普通」か)によって、子どもの将来は緩やかに決まってしまう。それが、ずっと前から続き、今さらに強まりつつあるのが、現代の日本社会です。

自分の子供時代を振り返っても…

こうした主張は自分の過去を振り返っても、頷けることばかりでした。経済的に恵まれた東京の家庭に生まれた僕は、幼少期からたくさんの本を親に買ってもらい(代わりにテレビアニメやゲームは禁止)、放課後は各種の習いごと。やがてその習い事が中学受験塾に代わって、中学から国立の中高一貫校へ。そこでは僕と同等かそれ以上に裕福な家庭の子どもが多く、今、親になった同期生のほとんどは、子どもを小学校か中学で受験させるのが当たり前の価値観を持っています。

たまたま裕福な家庭に生まれた人間が、幼少期から様々な恩恵を受け、次第に異なる生活環境の同世代のクラスメートを遠ざけ、同じ階層出身の人たちをコミュニティの仲間として選ぶ。要約すれば、僕の子供時代はそういう過程だったことを認めざるを得ません。

自分の「正しさ」に酔わないために

膨大なデータに基づいて「緩やかな身分社会」であることを論じた後、第7章以降で筆者はこのような社会に対する自身の提案をします。ここは本書の白眉なので、ぜひご一読を。平等にしているだけでは格差は埋まらない。では、どうすれば?という議論が展開されます。

個人的には、この問題に関連して、どんなに善意に基づいたとしても、研究結果やデータを無視した場合、その教育制度や実践が「意図ならざる結果」をしばしばもたらすという指摘が印象的でした。

とりわけ、「自由」「子どもの選択」「個別化」を掲げる風越学園のスタッフとして気になったのは、次の主張。少し長くなりますが、そのまま引用します(pp261-262)。

教育制度によって構造化された時間を縮小し、児童・生徒の選択の「自由」を尊重するのが 「小さな学校」だ。部活動・補習・宿題の廃止論などは典型例で、学校にいる時間を減らし、 家庭の中に学校(の課題)が入り込んでくることを「自由」の侵害としている。動画授業や人工知能を利用した学習の個別化も同じく「自由」と個人の「優秀さ」を最大限に尊重する「効率」的な教育といえる。授業時間やカリキュラム量を削減した「ゆとり」教育も学校の介入か ら「自由」にすることを志向したという意味で同じ系統だ。

「自由」による自己選択は理念としては素晴らしい。ただ、もし単純に公教育の役割を縮小するのであれば、「生まれ」は現在よりも直接的に子に引き継がれることになり、厳密な身分社会に近づくことを意味する。事実、2002年に土曜日が休日になったことにより、SESに よる中学3年生の学習時間と高校1年生の読解力の格差が拡大したと解釈できる研究結果がある(Kawaguchi 2016)。「小さな学校」による個人の「自由」の拡大によって「差異化」が進み、結果の「公平性」が脅かされるのだ。同様に、学習を徹底的に個別化すれば、初期の「能力」と親の子育てパターンにSES格差があるので(第2章)、学校の「平等化」機能は弱まり、格差は拡大すると考えられる。「能力」に合わせた「効率」重視の飛び級・留年も同じだろう。

もちろん、価値の相克と向き合った上で、「結果としてより厳密な身分社会になったとしても、個人の自由(な選択)が尊重されるべきだ」という主張であれば、それは一つの意見だ。 後半の耳あたりのよいところだけを主張する偽善(あるいは単なる無知)より、よっぽど建設的な議論に繋がる。

「自由」「自己選択」「個別化」を標榜する教育実践が、「平等化」と基本的に相容れない方向性であることは、自覚しないといけません。自由にすればするほど、家庭教育の影響力が高まって、高SESの家庭の子に有利になる。

また、同じことが「地域に開かれた学校」にも言えるとのこと。地域に開けば開くほど、地域の教育力の差が表れるので、仮に全国の全ての学校が地域に開けば、それは地域ごとの教育格差を拡大させるでしょう。

結果として、筆者の表現を借りれば、一見自由で地域に開かれた学校が、意図しない結果として「より厳密な身分社会をもたらす」可能性は常にあります(もちろん、教育政策と一つの学校の影響力を同一視してはいけないでしょうが)。ではどうするのか。ここが難しい。筆者は次のようにも述べていました。

大切なのは、あらゆる実践・政策・制度の「よい側面」だけを見て「正しさ」に酔うのではなく、相反する価値・目標・機能の中で葛藤し、総体としての「みんな」の可能性の喪失を最小化することなのだ。(p287)

相反する価値の中で葛藤し、それでも一つの価値を選びとって、自分の限界を知りながら、総体としてのベストを追求すること。決して、自分の「正しさ」「耳当たりの良い教育理念」に酔わないこと。自分たちの実践を、研究を参照項にしながら、より俯瞰してみること。

誰もが薄々は感じ取っている、しかし自分の経験を一般化しがちな教育格差の実態を、きちんとしたデータで立証し、今後の処方箋を示す。実践と研究を往還させることの大切さが感じられる本でした。ぜひ読んでみてください。

西尾実の国語教師論再レビュー

「自分本位」「子供本位」への厳しさ

これを読むと僕なんかは典型的な「第二の段階」だと思うのですが、こういう手合いに対して西尾先生は実に手厳しいのですね。

そういう教育者は、生徒の生命を伸ばしそれを力強くすると思いながら、実は教師自身の自我を以てそれを蔽い、児童生徒をして、一時的な自己の追随者たらしめて満足している場合が甚だ多い。

自己の主観に立脚して、教材の見方から教え方まで、あくまで自我の刻印を刻して教えてゆこうとするのは、いかにも全生命を打ち込んだ熱心さのように見えるが、これも教師の個人的主観をもって児童生徒の心を色どり、一時的興奮を与えるにすぎない(後略)

などの言葉が並んでいます。面白いのは、こういう自分本位の教師は、得てして子供を語る際に、「取るに足らぬ些事、ないし矯正せらるべき癖までも、何か特殊な意義あることででもあるかのように」取り扱い、それを「個性の尊重」だと勘違いする、という批判をしていること。こういう教師は、結局「なんらの指導も鍛錬も与え得ず」に終わる、と痛烈に批判をしています。一見「教師本位」と対立的に語られそうな「子供本位」をも、教員の我執に基づいたものと書いた点は面白いなと感じました。

我執を離れて「道」に従う第三段階

そしてこの第二段階を超えた段階が第三段階。単に規定に従うのではないのはもちろん、「教師中心」でも「子供中心」でもない第三段階は、「道」に従うというもの。

鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』 あらすじ編集

鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』をとても面白く読んだ。一言で言うと「教師が予定したように生徒が学習するなんてありえないよ。それは「教育ごっこ」に過ぎないよ」と主張する本で、それを踏まえて、じゃあ人間はどう学習するのか、を「創発」をキーワードに論じた本である。良い意味で、読んでよくわからなくなる面白い読書。おすすめです。

私たちはどう学んでいるのか ――創発から見る認知の変化 (ちくまプリマー新書)

私たちはどう学んでいるのか ――創発から見る認知の変化 (ちくまプリマー新書)

鈴木宏

筑摩書房

価格¥825(2022/09/11 00:04時点)

発売日2022/06/09

商品ランキング5,598位

目次 [非表示]

1 キーワードは「創発

2 複数のリソースによる「揺らぎ」が発達を生む

3 学校教育への示唆

4 「教師の仕事ってなに?」を考えさせられる本

5 補足)著者のブログも必読

キーワードは「創発

本書のキーワードは「創発」。それは、通常の学習のイメージ(先生から教えた学習内容を理解し、練習して熟達することで学習するイメージ)とは大きく異なる、人間の「認知的変化」を捉えるための言葉である。「認知的変化」が起きた時、つまり、何かができるようになった、成長した時に、人は必ずしもその変化を意図的に起こしたわけではない。大人から見るとずいぶん成長したように見える当人が、実は自分の変化に全然気づいていない。それは、学校教員をやっていればしょっちゅう出会う事実である。

この本では、その意味で人間の変化を、環境の影響を受けつつ、多くの要素同士の相互作用によって生じる「無意識的なメカニズム」と捉え、その過程を「創発」というキーワードで捉えようとするのだ。これは、人間の成長や変化をコントロール可能なものと考える従来の教育観(「教えたらできるようになる」という教育観)とは大いに異なるものだろう。

本書は、それぞれの章の冒頭に「その章のまとめ」が書かれているために非常に読みやすい。それらの主張をさらに簡単にまとめると次のようなものになる。

「能力」なるものは存在しない。それが人間の内部に安定的に存在する仮説は誤りであり、実際には知的営みは文脈依存性が大きい。

知識が人から人へそのまま伝わる事はない。知識(有用な知識)とは、本人が経験のネットワークの中で、さまざまな感覚の競合・強調によって構築するものである。

練習による上達は、直線的には進まない。それは複数のリソースの相互作用の中で複雑なうねりとなって表れる。

発達は段階的に進むわけではない。子どもは複数の認知リソースを持っており、使用頻度の高いリソースの割合が変化する過程を、他者が「発達」と認識するのである。

ひらめきは、理由なく突然訪れるのではない。身体を用いた環境との相互作用の中で、多様な試行が行われた結果として制約が緩和され、訪れるものである。

これだけだと「何のこっちゃ」と思われる方もいると思うが、それは本書をお読みいただきたい。少なくとも、上記のまとめの太字部分を読んで「え、そうなの?」と興味を惹かれた方は、この本を読む価値がある。

複数のリソースによる「揺らぎ」が発達を生む

個人的に一番面白かったのは第4章だ。この章では、ピアジェらに代表される「発達段階」という考えがそれまでの「漸進的成長」という考えを否定して子どもの独自の価値を認めたことの歴史的意義を認める一方で、1980年代あたりからこの考えに反する実験結果が次々と出てきたことを主張している。そして、発達を「複数のリソースのせめぎ合い」のモデルで捉える。その際に、複数の相反するリソースが同時に起きてしまうような「揺らぎ」ことが、次の発達を生み出している、と主張しているのだ。この辺の話は、「発達」が一筋縄ではいかないものを示す話として非常に面白かった。

今井むつみ『学びとは何か』

物事に熟達した人、いわゆる「名人」や「達人」たちは、僕たちと何がどう違うのだろうか。それを考えるヒントになる本。ある分野で熟達しようとする人、そして「熟達を目指す人=探究人」を育てる立場にある人におすすめの本。

臨機応変な判断」ができるのはなぜ?

この本が取り扱うのは、例えば次のような話題だ。

そもそも「知識」とは何か。それはただの「記憶されたもの」とどう違うのか。

人はどのようにして「知識」を身につけて(=構築して)いくのか。

一流の熟達者はなぜ「臨機応変な判断」ができるのか。

暗記は本当にだめなのか。

これらの話の中でも特に面白かったのは、熟達者の「臨機応変さ」についての部分だった。たとえば、授業でも、初心者(例えば教育実習生)が指導事項をしっかり決めて「指導案通り」の授業を無理に展開しようとするのに対して、ベテラン教員は肩の力が抜けきった感じで、傍目にはやる気なさそうにさえ見えるのに、授業になると「押さえるべきところを押さえる」ことができる(もっとも、本当にやる気のない人も皆無ではないだろうけど、まあそれはおいておこう)。こういう差は、何によって生じるのだろうか。

筆者よれば、それは基本的には「膨大な経験に裏打ちされた、体系化された知識」である。熟達した教師にはそれがあるので、仮に教室で未知の状況に直面にしても、その本質や結果について大雑把な見通しを持つことができる。ただし、その意味では、ただ経験するだけ、ただ経験を覚えるだけでは、それが直観的思考に結びつかず、臨機応変なベテランにはなれない。経験が意味づけされ、目の前の状況に応じて取り出せることが重要なのである。

熟達がはらむ二つの対立する要素

この本は「学習の仕組みを科学的に説明する」入門書なので、同じ分野の類書を読んだ経験のある人には、「聞いたことのある」話も続く。ただ、熟達という現象を次のように説明している点は、非常にわかりやすかった。

そもそも熟達という過程は対立する二つの方向性に折り合いをつけなければならない過程にほかならないのだ。…熟達するにつれて、知識は大きなシステムとなり、安定し、いろいろと考えずに自動的に身体が動くようになる。それはものごとを正確にぶれなく行うためにとても大事なことだ。しかし一方で、それは慣れとなり創造性の足を引っ張る。一流の熟達者が創造的であるのは、彼らが「思い込み」にはまらないように、常に意識的に思い込みを破ろうとしているからだ。

たしかに、熟達とは様々な処理を脳内で「無意識化」「自動化」できるということ。いったん乗れるようになってしまえば、何もしなくても自転車に乗れるのと似ている。しかし、それができるということは、一方でその「自動化する処理システム」そのものについては無自覚になり、批判的にとらえることができなくなる危険性を孕んでいる。その危険性に向き合えるかどうかが、一流の熟達者とそれ以外の人の分かれ目なのあろう。

必要なのは、自分自身の「処理システム」を自動化するほどに大量に経験した上で、それに自覚的になり、挑戦していくこと。口で言うのは簡単だし、リフレクションが大事だと言うのもまたたやすいけど、実際問題として、こういう人に、どうしたらなっていけるんだろう…。長い時間をかけて日々練習を重ねて自然と身体が動くようにしつつ、かつその「自然さ」をも客観的に捉えてそこから自由であろうとする。超一流の人というのは凄いのだなあとなんだかとても遠い人のように思えてしまう僕なのであった。

  •  

『子どもに学ぶ言葉の認知科学』

おもしろ言葉ネタから、認知の仕組みの入り口まで

例えば、本書では鏡文字や漢字の書き取りミスについての章(第2章)があるが、もちろん本書は「こんなミスがあって面白い」では終わらない。子どもの漢字の覚え間違いには、漢字の字素=パーツ(部首や音符など)そのものの向きが定着していない場合もあれば、パーツは正しく書けてもそれが正しく配置できない場合もあること、そして、そもそも人は対象をどう認知しているのかという点にも話は及ぶ。この辺の話で印象的だったのは、もそも人間の視覚認知は、向きに関係なく同じ形は同じものとして認識するのが基本で、鏡文字もある意味で自然なありようなのだ、という指摘である。つまり、書くことを学ぶとは、人間が持つ「左右の向きの違いに関係なく形を認識する」能力を、文字を対象とした時だけ捨て去ることを学ぶと解釈できるらしい。なるほど、人間の元々の認知の仕組みからすれば、ずいぶん特殊なことをやってるんだなあ。そりゃあ、間違えるわけだわ….。

この例のように、本書の面白さは、間違いに端を発する言葉の面白話から始まって、人間の認知の仕組みの一端をのぞくところまで連れて行ってくれることにある。他の章では、この手の話での鉄板である語用論の話(第6章)ももちろん面白い。特に、二等辺三角形の中に正三角形を含めない見方は、理系の人からはよく「間違い」視されがちだけど、グライスの会話の公理から言えば妥当なのだとも指摘してて、「正三角形は二等辺三角形に決まってるじゃん!」と思いがちな自分としては、なるほどそうだよねと納得した。また、第3章で英語と日本語における関係節の扱いの違いの話から始まって(この話自体が、日英の比較言語ネタとして面白い)、では、日本語のある関係節に複数の解釈可能性が生じたときに、人間はどちらの解釈を認知的コストが軽いものとして採用しやすいのか、という実験の結果など、とても興味深かった。ここから、人間が言語の意味を理解するときに何を「コスト」として考えるのかもわかるんだなあ…。こんなふうに、言葉の面白ネタから言語の認知科学に「ちょっと」ふみ込むあたりの匙加減が入門書としてとても良い。興味を引いて、あとは文献案内に引き継ぐ感じ。

ちょっと脱線。体育館=たいくかん?

ところで、本書の第5章、音声知覚の話に関連して、読んでいるうちに気になったことが出てきたので、脱線だけどここに書いておく。第5章では、ジャンケンをしてグー=グリコ、チョキ=チョコレート、パー=パイナップルとして、その数だけ階段を上に進める遊びについてちょっとだけ言及されていた。筆者は、チョコレートは5拍なのに6歩進む扱いになっていたことに違和感があったようなのだけど(p161)、ここを読んで、僕も同感だったのを思い出した。だって、グリコ=3歩、チョコレート=6歩、パイナップル=6歩だったら、チョキとパーで同じ歩数になるからゲームとしてのバランスが悪いように感じて….(実際どうかは知りませんが…)。チョコレートは5音なんだし、チョキは5歩が正解じゃないの?と思っていたのだ。

ちなみに妻は、このゲームは音数をカウントしているのではなく、文字数をカウントしているのだ、と説明していました。階段の一歩が一文字を書くに相当する。なるほど、それならチョコレートも6文字だから、6歩になりますね。ちょうど先週、風越で俳句の授業をやっているんだけど、チョコレートの音数を6音と数える子も少なくない。これ、このジャンケンの影響じゃないかなあ? 

そして、この話をTwitterで呟いたところ、雑談はさらに脱線し、「体育」を「たいく」と読む不思議へ。確かに、「体育」は「たいいく」なのに、「たいく」と発音する人が少なくないですよね。特に、「体育館」は多数が「たいくかん」と発音する気がする。この省略はなんで起きるんだろう、「いい」と母音が連続するからかな?

そう思って他の用例を考えたのだけど、大奥おおおく、退院・隊員たいいん憂鬱ゆううつ飼犬かいいぬ会員かいいんなど、いずれも「体育」のようには省略されない。例えば「会員かいいん」は後ろに「証」が着くと「かーいん(しょう)」と「かーいん」化するが、「体育館たいくかん」のように音の数が減る(「かいんしょう」になる)わけではない。結局よくわからなかったのだけど、なぜ「体育」だけ音の数が減るのかな? どなたか教えてください…。

間違いが見せてくれる豊かな世界

とまあ、この本から離れて脱線してしまったけど、読んでるうちに言葉が気になるモードになり、こういう脱線をしてしまうのも、結局はこの本の面白さなのだ。文法、文字、構文、音声、語用論、心的辞書と、言語に関する広い範囲をカバーしているので、国語教師のみなさんはもちろん、言葉に関心のある人なら、どこかヒットするところが必ずあるはず。

個人的には、「間違い」が見せてくれる豊かな世界を久しぶりに楽しんだ読書だった。教師は研究者じゃないから、間違いに対してそうそう寛容でばかりもいられない(訂正をしないといけない)立場ではあるけど、でも、間違いを通して見えてくるその子の頭の中の「正しい」理屈、ちゃんと見られるようにしたいな。この前読んだ今井むつみ先生の算数の本(下記エントリ参照)にも言えるけど、目の前のエラーから、その子がどう考えて、何につまづいてるのかも、もう少し解像度高く、好奇心を持って見られたら、と思う。